八木岡五郎なる人物が「太平記」の中に登場します。
八木岡氏の一族と見られる武将で、
登場する場面は、
巻第十六「多々良浜合戦事付高駿河守引例事」
建武3(1336)年3月2日、
後醍醐天皇方の菊池軍と足利尊氏軍が激突した、
九州「多々良浜の戦い」です。
同年1月、
京にいた足利尊氏は、
奥州から大軍を率いてやってきた北畠顕家の軍勢に敗れ西へ敗走。
尊氏は九州の少弐氏に迎えられます。
足利尊氏の軍勢は少数であるのに対し、
後醍醐天皇方の菊池氏は大軍であることから、
尊氏は自害を決意します。
その尊氏を弟直義は思い止まらせ、
直義自身が歴戦の強者と共に菊池軍へとぶつかっていったのです。
この直義に従った者の中に、
八木岡五郎の名前が名が見えます。
足利軍と菊池軍が睨み合う中、
菊池軍から抜け駆けをしてきた武将に対し、
白石彦太郎が戦って敵の首を落とし、
曾我左衛門は敵の馬に飛び乗り、
八木岡五郎は敵の鎧をとって身に付けます。
多々良浜の戦いに勝利した尊氏は、
勢力を盛り返すことに成功し、
再び京に向けて進軍します。
さて、
八木岡氏というのは、
芳賀氏の一族です。
芳賀氏は宇都宮氏の重臣であり、
主君の宇都宮公綱に従って行動をしています。
ふと考えてみると、
八木岡氏の軍勢は、
宇都宮氏の軍勢、
それも芳賀氏の軍勢の中に、
いるのではないのだろうか?
と思うわけです。
ちなみに宇都宮氏は、
多々良浜の戦いに参加していません。
この時は新田義貞軍に加わっています。
つまりは後醍醐天皇方です。
「太平記」に八木岡五郎と単独で書かれていることは、
宇都宮氏や芳賀氏とどこかで別行動をとった、
あるいはそれとは違う、
何か特殊な事情があったと思われます。
あるいは、
八木岡氏の祖である高房の跡を継いだ高政は、
常陸小栗氏から養子に入った者であるため、
八木岡氏が小栗氏に属していた可能性もありますが、
小栗氏の当時の動向は分かりません。
いずれにせよ、
八木岡五郎なる人物が、
「太平記」の中で名前が残ったことで、
栃木県の武将が九州まで行っていたことが分かりますので、
興味深い出来事です。
多々良浜の戦いでは、
栃木県の武将でもう1人、
足利市名草中町に館を構えていた南宗継も参加しています。
高一族の南氏は尊氏の重臣です。
南宗継は大河ドラマ「太平記」にも登場しており、
樫葉武司さんが演じています。
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