九鬼トシユキです。
栃木県下都賀郡壬生町にある精忠神社。
その本殿の後ろ、
方角で言うと本殿の北側に、
「畳塚」があります。
江戸時代の壬生町は、
江戸時代初期に幾つかの大名の変遷はありますが、
1712年に鳥居氏が入り、
以後鳥居氏で明治維新を迎えています。
壬生藩の城である壬生城は、
壬生町の公民館や図書館が建っている場所にあり、
その西側に精忠神社が建っています。
そして精忠神社は、
鳥居氏の祖である鳥居元忠を祀っている神社です。
鳥居元忠は徳川家康の忠臣。
関ヶ原の戦いの前に起こった伏見城の戦いでは、
元忠は大軍の西軍相手に少ない兵で死守し、
8月1日に自刃して果てます。
家康は元忠の忠義を称し、
自刃の際の血に染まった畳を江戸城の伏見櫓に置きました。
その畳は、
明治維新で江戸城が明け渡された際、
鳥居氏が藩主となっている壬生に納められ、
こうして「畳塚」が生まれました。
鳥居元忠から壬生藩主鳥居氏まで、
その間のことを調べてみると、
元忠の功績が非常に大きく影響していることが分かります。
元忠の死後、
鳥居氏を継いだ子の忠政は、
元忠の時が4万石であったのに、
山形藩24万石まで大出世を遂げます。
忠政の跡を継いだ子の忠恒は病弱の体質で、
子がいないまま33歳という若さで病死。
鳥居氏は改易になってしまいます。
幕府は元忠の功績を考慮し、
忠恒の弟忠春に信州高遠3万石を与えました。
その忠春は悪政を行ってしまい、
侍医に斬りつけられて亡くなります。
忠春の跡を継いだ子忠則は、
家臣の不祥事が原因で閉門となり、
その直後に謎の急死。
鳥居氏は家臣統制失敗のため、
忠則の子忠英は相続が認められず、
鳥居氏は再び改易になってしまいました。
それでもやはり元忠の功績が大きく働き、
忠英は能登下村で1万石が与えられました。
後に1万石加増で近江水口へ、
さらに1万石加増で3万石となり壬生へ、
こうして以後幕末まで壬生藩は鳥居氏です。
畳塚も、
栃木県にある関ヶ原関連史跡と言えますね!
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「栃木の城+α」
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