九鬼トシユキです。
宇都宮氏の5代当主
宇都宮頼綱の母を見ると、
平長盛の娘となっています。
この平長盛とは誰か?
平長盛の父は平忠正。
忠正は平清盛の叔父です。
しかしながら平忠正・長盛父子は、
保元の乱後に死刑となり、
清盛に斬られます。
死刑が行われるのは、
意外なことではありますが、
810年に起こった薬子の変以来です。
では保元の乱とは何か?
平忠正・長盛父子がどう関わったのか?
という疑問から、
私の平安時代末期の勉強が始まりました。
保元の乱は、
後白河天皇と崇徳天皇の争いで、
両者は共に鳥羽天皇の子で兄弟です。
なぜ争うことになったのかを調べると、
複雑な人間関係が見えてきます。
鳥羽天皇は崇徳天皇に譲位すると、
自身は太政天皇(上皇)となって院政を行います。
便宜上、
以後の記述は鳥羽天皇は鳥羽法皇で統一し、
他の天皇は上皇でも法皇でも天皇で統一します。
ちなみに法皇は、
出家をした上皇のことです。
崇徳天皇は中宮の聖子との間に子ができず、
弟の近衛天皇を養子にしました。、
崇徳天皇が生まれたのは1119年、
近衛天皇は1139年生まれと、
兄弟にして親子ほどの年の差があります。
そして弟ではありますが、
近衛天皇を「皇太子」としました(したはずでした)。
崇徳天皇は父の鳥羽法皇から譲位を迫られたことで、
わずか3歳の近衛天皇が即位しました。
ところが、
崇徳天皇の「皇太弟」である近衛天皇が即位したことになってしまい、
崇徳天皇が院政を行える道がなくなりました。
院政は、
天皇が譲位して上皇となると敷かれます。
院政は皇統問題の権限を持ち、
院政を行うには子への譲位が必要です。
よって崇徳天皇が、
皇太子である近衛天皇に譲位するか、
皇太弟である近衛天皇に譲位するかでは、
大きな違いがありました。
近衛天皇は17歳で亡くなります。
子がないまま亡くなってしまったので、
次の天皇を誰にするのかの問題が起こりました。
候補は崇徳天皇の子である重仁、
崇徳天皇の同母弟である雅仁(後白河天皇)、
そして雅仁の子である守仁(二条天皇)。
重仁が有力かと思われましたが、
守仁を将来天皇にすることで決まり、
雅仁がそれまでの中継ぎとなることで、
後白河天皇が誕生しました。
これでは崇徳天皇の子供へ皇位が受け継がれません。
崇徳天皇の一連の問題が、
保元の乱勃発の1つの原因になります。
また摂関家藤原氏の問題も原因です。
崇徳天皇の子である重仁は、
1140年に兵衛佐という女性との間に生まれました。
この重仁の誕生を面白く思わないのが、
中宮である聖子の父で関白の藤原忠通。
近衛天皇の即位を急がせたとも言われ、
崇徳天皇と藤原忠通の不和へと繋がりました。
藤原忠通は男子に恵まれず、
親子ほど年の差ある弟の頼長を養子にしました。
その後、
忠通に男子が誕生したことで、
実子に関白を継がせたく忠通と頼長が対立。
この対立に兄弟の父忠実は頼長の味方をし、
忠通を義絶して頼長に氏長者(藤原氏頂点の地位)を継承させました。
忠実と頼長は、
近衛天皇の死を呪詛したという噂が流れたことで失脚。
忠通・忠実と頼長の対立も保元の乱の1つの原因です。
それではなぜ崇徳天皇が遠ざけられてしまったのか。
これは近衛天皇の母である得子が大いに関わるようです。
鳥羽法皇ははじめ璋子を寵愛し、
その後に得子を寵愛します。
鳥羽法皇と得子との間に近衛天皇が誕生した際、
まだ得子の地位が低かったために、
崇徳天皇の中宮である聖子が育てました。
その後に得子の地位が上昇。
崇徳天皇と兵衛佐との間に生まれた重仁と、
後白河天皇の子である二条天皇は、
得子が育てました。
これは兵衛佐の身分が低かったためと、
二条天皇の実母が亡くなってしまったためです。
そうした中で、
崇徳天皇の母は璋子だが、
実は鳥羽法皇の子ではなく、
鳥羽法皇の祖父である白河天皇の子という噂が流れます。
こういうところも保元の乱の原因の1つです。
この複雑な人間関係。
絶大な権力を持った鳥羽法皇が1156年に崩御すると、
鳥羽法皇という抑えがなくなったことで爆発します。
保元の乱は、
崇徳天皇・藤原忠実と頼長
後白河天皇・藤原忠通
この2派に分かれての対立です。
崇徳天皇側には、
平忠正・長正、源為義、源為朝等が参加。
後白河天皇側には、
信西入道、平清盛、源義朝等が参加。
宇都宮頼綱の曽祖父である平忠正は、
藤原忠実に仕えていたために崇徳天皇側です。
ただ2派とは言え、
後白河天皇は中継ぎの天皇であり、
権力が確立されていないので、
保元の乱は、
崇徳天皇側と鳥羽法皇に近い者達との争いと言った方が良いかもしれません。
そして、
後白河天皇側で大きな力となったのは、
平清盛と源義朝です。
平清盛は、
崇徳天皇の方に親しみを持っていたようですが、
鳥羽法皇に仕えていたことから後白河天皇側へ。
源義朝は、
藤原季範(熱田大宮司家)の娘(頼朝の母)を正室にしていた関係で、
熱田大宮司家が得子に仕えていたことから、
後白河天皇側になったようです。
今回の記事は、
大変長く複雑な記述となりましたが、
保元の乱の結果は後白河天皇側の勝利。
前述したように、
崇徳天皇側についた者達は死刑となりました。
しかも、
源義朝が父の為義と弟の為朝を処刑、
平清盛が平忠正と長正を処刑と、
死刑の執行者は一族によるものでした。
以上が、
宇都宮氏の御先祖も関わる保元の乱です。
今日もありがとうございます!
「栃木の城+α」
管理人:九鬼トシユキ
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